第5話 窮地 あらすじ [真田丸]
織田家の悲劇~信長・信忠の死
本能寺の変で信長〈吉田鋼太郎)と信忠(玉置玲央)は悲業の最後を遂げます。
織田信忠は信長の長男で、これまで松平信康徳川家康の長男・松平信康の切腹と結びつけて
暗愚な人物と評されてきました。
しかし、信忠は長篠の戦い~武田氏滅亡までの織田軍の事実上の総大将として
数々の武功を挙げ、信長の後継者としての地歩を固めて来ていたことを
史料から伺うことができます。
そのため最近の研究では、信忠の人物像への再評価がなされていて、
信忠が安土に逃げのびていれば織田政権は存続し、
秀吉や家康の出番はなかったのではないか、という見解も出ています。
新しい信忠像を知り、その視点からドラマを見てみるのも面白いかも知れませんね^-^
家康の伊賀越え
堺にいた徳川家康(内野聖曜)は身の危険を感じ、あわてて自領の三河へ帰ろうとします。
堺の茶屋四郎次郎や)伊勢の角屋七郎兵衛などの豪商の力を借りて伊賀越えをします。
この時、家康を護衛し、無事岡崎城へ送り届けたのが伊賀忍者の棟梁・服部半蔵(浜谷健司)です。
この手柄によって伊賀忍者は江戸城を護衛する「御庭番」と、
時代劇で知られる「草」をはじめとする諸大名の動向を探るスパイの役目を
担い、今も皇居に「半蔵門」の名を残しています。
信繁の恋
一方、信濃の真田の里では、まだこの異変は届いていませんでした。
真田家の家臣・堀田作兵衛(藤本隆宏)は信繁(堺雅人)が妹の梅(黒木華)に好意を寄せ、
梅も信繁を好いていそうなことから、信繁に嫁がせたいと考えながら、身分の違いから釣り
合わないと思いあぐねていました。
また、同じ家臣の高梨内記(中原丈雄)も娘のきり(長澤まさみ)を信繁に嫁がせたいと考えていました。
そのため、内記は昌幸(草刈正雄)に相談してきりを真田家へ奉公に出すことを決めます。
これを聞いたきりは信繁が梅に好意を寄せていることを感じながらも、信繁の近くにいられることになったこと
から」笑みがこぼれてくるのでした。
「湿る松明のような恋」。
なんかザ・ジャニーズの「君に会いたい」の歌詞を思い出してしまいました(苦笑
真田の窮地
まもなく「味方になれ」という書状をもった明智光秀〈岩下尚史)の使いが昌幸のもとへやってきます。
昌幸は光秀の使いを捕縛し、他の国衆に光秀の書状を見せないで思案にくれます。
そうしたなか、信長の人質として安土に赴いたまつ(木村佳乃)と届け役の信繁(堺雅人)は
どうなっていたのでしょう?
光秀の謀反で信長がなくなったことを知った信繁は、安土城の抜け穴を見つけ出し、まつ一行とともに
場外への脱出に成功します。
信繁たちは無事真田の里へ戻ることができるのか?
はたまた、佐助は信繁たちを救い出せるのか?
そして真田をはじめとする信濃の国衆は上杉に本当に臣従するのか?
第6話が待ち遠しいですね^-^
真田丸 キャスト 福士誠治 [真田丸]
第4話 挑戦 あらすじ [真田丸]
真田丸 人物列伝~真田信幸(信之) [真田丸]
<h2>真田信幸(信之)・・・大泉洋</h2>
生存年:永禄9年(1566年)~ 万治元年10月17日(1658年11月12日)
改名:源三郎(幼名)→信幸(初名)→信之
別名:一当斎(号)
戒名:大鋒院殿徹巌一当大居士
墓所
長野県長野市松代町の長国寺
長野県長野市松代町の大鋒寺
和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山蓮華定院
京都市右京区の妙心寺塔頭 大法院
官位:従五位下、伊豆守、従四位下侍従
主君:徳川家康→秀忠→家光→家綱
父:真田昌幸
母:山手殿(寒松院、宇多頼忠の娘)
兄弟:信之、信繁、昌親、信勝、村松殿(小山田茂誠室)、真田幸政室、鎌原重春室、保科正光室、於菊(宇多頼次室のち滝川一積室)、清 光院(妻木頼熊室)、於楽
正室:小松姫(本多忠勝の娘)
側室:右京(玉川秀政の娘)
清音院殿(真田信綱の娘)
子:信吉、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、道鏡慧端
永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる。
真田家は織田信長の死後、北条→徳川と臣従を繰り返し、最終的に豊臣秀吉に臣従した。
信幸は徳川の与力大名となり、その後、家康は信幸の才量を愛で、本多忠勝の娘・小松姫を
養女にして結婚させました。
天正18年(1590年)、小田原征伐では真田が上野松井田城攻めで戦功をあげ、
北条氏滅亡後、沼田領が真田家の所領と加増されると信幸は沼田城主となります。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発します。
父の昌幸は妻の山手殿が石田三成の妻と姉妹の関係、弟の信繁は妻が大谷吉継の娘の関係から、
石田三成の西軍に付きます。
信幸の方は徳川に臣従し、妻がッ本多忠勝の娘の関係から東軍に付きます。
親・兄弟が戦場で戦うことになりますが、
信幸は戦後、父と弟の助命を嘆願し、義父の本多忠勝や井伊直政の働きかけもあって
高野山へ流罪となっています。
信幸自身は父の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石の大名となります。
また、父や弟との決別の意で名を信幸から信之に改めています。
しかし、父や弟との関係は良好で、父や弟へ仕送りをしていたことが
記録に残っています。
大坂の陣後の元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、
13万石(沼田3万石は継承)の大名となります。
信之は真田家の礎を築いたのに安堵したのか、
同月の17日、永眠しました。
享年93歳。
その後信之の系統は断絶しましたが、養子が後を継ぎ、
明治には華族(子爵→伯爵)となっています。
真田信之は、伝説化された弟の信繁、父の昌幸と比べると、
知名度が低いです。
しかし、父・昌幸に劣らぬ智将・猛将であることを
史料からうかがうことができます。
信之は沈着冷静で温厚な人物と言われていますが、
戦場では総大将なのに常に先陣を切って進む
という豪快さを持っていたそうです。
神田明神の祭神である平将門そっくりですね^-^
父親譲りの智謀は、小田原討伐の手子丸城攻略に
表れています。
17歳の信之は手子丸城出警戒の薄い北の丸に
工作部隊を送り、「裏切者が出た」と叫びながら
放火させました。
北条軍が同様するなか、信之は50人の決死隊とともに
突入し、手子丸城を陥落させました。
まるで源義経のゲリラ戦と同じですね。
17歳でこの策略。
敵にしたくないですね〈苦笑
信之は父や弟が豊臣方だっったために、
徳川方の心ない大名たちから「裏切り者」
と疑われていました。
しかし、それでも父や弟の助命を求め、
家康や井伊直政、本多忠勝などから信頼された
のは、信之の人間性だと思います。
昌幸に劣らぬ武将として、
信繁以上に評価すべきと思いますが、
あなたはどう思われるでしょうか?
真田丸 人物列伝~真田昌幸 [真田丸]
真田昌幸・・・草刈正雄
生存年:天文16年(1547年) ~ 慶長16年6月4日(1611年7月13日)
改名:武藤喜兵衛→真田昌幸
幼名:源五郎
通称:喜兵衛
戒名:長谷寺殿一翁千雪大居士
墓所
真田山長国寺(長野県長野市)
真田山長谷寺(長野県上田市)
善名称院(和歌山県九度山町)
官位:従五位下、安房守
主君:武田信玄→勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼
父:真田幸隆
母:河原隆正の妹・恭雲院
養父:武藤三郎左衛門尉
兄弟:信綱、昌輝、昌幸、信尹(加津野昌春)、金井高勝、清鏡?
正室:山手殿(寒松院殿)
子:信之、信繁(幸村)、信勝、昌親、村松殿(小山田茂誠室)、娘(真田幸政室)、娘(鎌原重春室)、娘(保科正光室)、
於菊 〈宇多頼次室のち滝川一積室)、清光院(妻木頼熊室)、於楽
甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、
真田幸隆(幸綱)の3男。
信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。
織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、
本能寺の変後に再び自立し、近隣の後北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、
豊臣政権下において所領を安堵された。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、
徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、
関ヶ原の戦いで西軍についたために改易され、
信繁とともに高野山へ幽閉されます。
その後、九度山へ移り住むが、10年の過酷な流人生活は昌幸の気力を奪い、
慶長16年(1611年)6月4日、病没した。享年65歳。
昌幸は、軍記物や講談、小説などに登場したことで、
後世には戦国時代きっての知将・謀将とされ、
現在でもよく知られています。
徳川家康は、大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると、
「親の方か?子の方か?」と訊ねたそうです。
これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていた証とされ、
家康の手はその時ガタガタ震えていたと伝えられています。
いかに家康が昌幸を恐れていたかが理解できますが、
実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したともいわれています。
これは、昌幸の2度にわたる上田合戦が「寡を以って衆を制する」戦いの模範であるために
第3話 策略 あらすじ [真田丸]
第3話 策略 あらすじ
真田家は昌幸〈草刈正雄)の鶴の一声で
織田信長〈吉田鋼太郎)に臣従することを決めましたが、
課題は信長に真田をどう高く売るか、でした。
そのため、昌幸は巧妙な策略をはかります。
そのころ高遠城では、本多正信〈近藤正臣)が
主君の徳川家康〈内野聖陽)に武田の旧臣を臣従させるために、
武田家の亡くなった人たちを厚く供養するよう進言していました。
その結果、徳川家に召し抱えられた武田の旧臣は
徳川四天王の一人・井伊直政に配属されます。
これが戦場で常に徳川の先陣を司る赤備えの井伊隊の
誕生となります。
ヒーローの真田信繁(堺雅人)は、
丘の上から家臣の堀田作兵衛〈藤本隆宏)の家を
うかがっていました。
目当ては作兵衛の妹・梅(黒木華)。
そこへ家臣の高梨内記〈中原丈雄)の娘・きり(長澤まさみ)
がやってきます。
信繁は「渡りに船」ときりに櫛を梅に渡してほしいと頼み、
きりにも梅に渡す櫛より安価そうな櫛を渡します。
きりは信繁が自分で渡すよう梅のところへ連れて行きます。
梅の前で自分の鼓動がわかるほど心臓がドキドキし、
喉がカラカラになる信繁。
梅に櫛を渡せません。
見かねたきりが信繁から櫛を取り上げ、梅に渡します。
梅はお礼をいい、嬉しそうにします。
信繁も梅も可愛いですね。
うちの女房は誕生日やクリスマスにプレゼントしても
嬉しそうにしません。
こちらが張りあいが抜けてしまいます。
嘘でも嬉しそうにして欲しいですね。
昌幸は信幸(大泉洋)に上杉景勝〈遠藤憲一)への書状を届けるよう指示します。
この動きを察知した透破の頭領・出浦昌相〈寺島進)と国衆の室賀正武〈西村雅彦)は
手の者に命じて書状を奪い取らせます。
正武は昌幸が上杉と通じていることを信長に知らせ、自分の評価を
高くしようと画策します。
しかし、これは昌相が協力した昌幸の策略で、信長に真田の評価をあげさせる
ことをねらったものでした。
翌日、信長から呼び出しの書状がきます。
昌幸は万が一を考えて信幸を残し、
信繁とともに信長のもとへ向かいます。
【留意点】
日本の歴史では、紫式部や清少納言、藤原道綱の母のように、
女性の名前が不明なのが数多くあります。
そのため、梅ときりの名称はドラマの架空で、実際は不詳です。
第2話 決断 あらまし [真田丸]
真田丸 人物列伝~真田信繁〈幸村)~ [真田丸]
真田信繁(幸村)・・・堺雅人
略伝
生存年:1567~1615年〈享年49歳)
改名:弁丸〈幼名)真田信繁、好白〈法名)
別名:源次郎、幸村、豊臣信繁、伝心月叟
官位:従五位下、左衛門佐
氏族:武藤氏→真田氏、豊臣贈姓
主君:上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼
父:真田昌幸
母:宇多頼忠の娘・山手殿(寒松院)
異説もある
兄弟:村松殿、信之、信繁、信勝、昌親ほか
妻:正室:(大谷吉継の娘、姪?)・竹林院
側室:豊臣秀次の娘・隆清院、
堀田興重の娘、
高梨内記の娘
子:阿菊(石合重定室)、
於市、
阿梅(片倉重長後室)、
あくり(蒲生郷喜室)、
幸昌、
なほ(御田姫、岩城宣隆室)、
阿昌蒲(片倉定広室)、
おかね(石川貞清室)、
守信、幸信、之親、
瓢左衛門
墓所:長野県長野市の長国寺・・・松代藩真田家の菩提寺
京都府京都市の龍安寺塔頭大珠院・・・娘・おかねの夫・石川貞清が建立
京都府京都市の妙心寺塔頭養徳院・・・非公開で不詳
福井県福井市の孝顕寺首塚・・・信繁を討ち取った西尾宗次の菩提寺
今は福井市立郷土歴史博物館に保存
宮城県白石市の田村家墓所・・・娘・阿菖蒲の夫・片倉定広が建立
秋田県由利本荘市の妙慶寺・・・娘の御田姫(顕性院)が建立
真田信繁は、1567(永禄10)年、真田昌幸の2男として
甲府で生まれました。
母は昌幸の正室・山手殿といわれていますが、
諸説あってはっきりしていません。
また、初陣の年も父の昌幸に従い、
北条方の丸子城を攻めた1583年(16歳)とされていますが、
真田氏は武田・織田両氏の滅亡後、秀吉に仕えるまで
南北朝の時の武士と同様、その時の状況に応じて
北条・徳川・上杉につくということをしています。
真田氏はこのような弱小豪族であったために、攻められることが多く、
記録にはありませんが、信繁も元服前から戦場に出ていた可能性は
高いと思われます。
豊臣秀吉が天下を取ると昌幸が臣従し、大名となったことから
信繁は大坂で人質生活を送り、その後、大谷吉継の娘〈後の竹林院)を
正室としています。
秀吉逝去後の1600〈慶長5)年、関ヶ原の戦いが起こります。
昌幸と信繁は石田三成の西軍、信幸は徳川家康の東軍に加わります。
これは講談にあるように、
昌幸が真田家の存続をはかるために敵味方に分けたのではなく、
信幸の正室・小松姫が徳川四天王の本多忠勝の娘で、
信幸自身も徳川家に出仕していたためです。
昌幸と信繁は第2次上田合戦で
徳川秀忠の3万の軍勢を上田城に釘付けにし、
関ヶ原の戦いに間に合わなくさせますが、西軍は敗れました。
そのため、昌幸と信繁は本来なら死罪は免れませんが、
信幸と本多忠勝の助命嘆願で
高野山に幽閉されます。
その後、九度山に移りますが、生活は困窮を極め、
1611(慶長16〉年、昌幸が病死します。享年65歳。
信繁自身も生活の労苦から歯が抜け、髪も白髪の
みすぼらしい初老の人となっていました。
そのため、徳川家の京都方広寺の鐘銘に対する豊臣家への難くせに端を発した
大坂の陣への参戦の時、大阪城の門番は信繁をいかがわしい者として入城を
拒んだというエピソードが残っています。
また、信繁は真田丸を築いて徳川軍を何度も敗退させるまで
兄の信幸のような軍功はなく、無名でした。
そのため、家康は昌幸を恐れていましたが、信繁が大坂に入城しても
眼中になかったようで、「信繁恐るべし」と認識するのは真田丸の攻防戦
後のことです。
そのため、真田丸の構想は昌幸によるもののように思います。
北政所さえ予測できたのですから、
昌幸ほどの人がいずれ家康が天下を狙うことを予測できないはずがありません。
九度山で昌幸は大阪城を守る秘策を信繁に教えたと思います。
それを信繁は実行し、ヒーローとなっったのだと思います。
まさにお調子者で実行力に富んだ坂本龍馬が勝海舟や佐久間象山などの考えを
実行に移し、薩長同盟や亀山社中を作ったのと相通じるところがありそうです。
真田丸への攻撃初日で徳川方はナント千人もの死者を出し、
その数は徳川方の大坂夏の陣の戦死者の8割に当たります。
家康はあわてて信繁を信濃3万石で召し抱える旨の使者を出しますが、
信繁に断られます。
たとえ3万石で召し抱えられても保証はなく、
改易・転封・減封は家康の思いのままです。
破格の待遇は信繁でなくとも信じられず断るでしょう。
その後、家康は豊臣家と和議を結び、
大阪城の外堀と内堀を埋め、真田丸を壊します。
本丸だけとなった大坂城は裸同然となります。
家康は豊臣家に臣従し、転封に応じるよう要求します。
和議は決裂し、大阪夏の陣が起こります。
信繁は毛利勝永などとともに家康本陣のみを目指して
最後の戦いにのぞみます。
信繁の軍勢は3度も家康本陣に突入します。
そのすさまじい猛攻に、
騎馬で逃れる家康は何度も「切腹するぞ」と叫び、
その度に側近から止められる始末だったといわれています。
しかし、これは信繁を讃える上での後世の作り話と言えそうです。
なぜなら、家康は三方ヶ原の戦いで恐怖のあまり馬上で小便をちびったと
いわれていますが、浜松城に入場すると開城し、追撃してきた山県昌景は
「空城の計」を疑い、軍を引き上げています。
このことから家康は上記のような取り乱した姿を露呈する武将ではなく、
もっと度胸が座っていたと思います。
そんな家康を逃走させた信繁も重なる戦闘で兵力が減少し、疲労していました。
安居天神で休んでいるところを越前の松平忠直軍に見つかってしまいます。
信繁はもはやこれまでと「儂の首を取って手柄にせよ」といって討ち取られます。
享年49歳。
真田信繁は家康を恐れさせた武将として勇猛果敢なように思われがちですが、
兄の信幸は「柔和で忍耐強く、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった」
と述べています。
頭に香を焚いて覚悟の戦死をした木村重成は
普段は茶坊主からも侮られるほど穏やかな少年だったそうです。
それが見事な死に際のために武士の鑑と徳川方から賞賛されました。
普段穏やかな人が怒った時は恐ろしいことは
私たちもなんとなく理解できそうですね。
歴史にもしもと言うことはありませんが、
大男の豊臣秀頼が少しでも総大将として
千成ひょうたんを掲げて出陣すれば
大坂の陣も違っていたものになっていただろう
と思えます。
今もそうですが、無能な者の下についたものは憐れです。
信用できる友人と自分のスキルやノウハウを磨くことが
大事なことを信繁の一生からも学ぶことができます。
第1話 船出 あらまし [真田丸]
■第1話 船出■
「真田丸」は、武田家滅亡の話から始まります。
天正10(1582)年1月、武田家では信玄(林邦史朗)の娘・真理姫を
正室にしていた重臣の木曽義昌(石井愃一)が織田信長に寝返ります。
ついで2月25日には、親族筆頭の穴山梅雪(榎木孝明)が
人質となっていた家族を密かに逃がして徳川家康(内田聖陽)に内通し、
徳川勢の甲斐侵入を手助けします。
重臣の相次ぐ裏切りをきっかけに
織田信長(吉田鋼太郎)の大軍勢が領内に侵攻し、
諸城が次々に陥落していきます。
武田家に仕える真田昌幸(草刈正雄)は
上野国(群馬県)にある自らの居城・岩櫃城で
織田を迎え撃つことを武田勝頼(平岳大)に進言し、
準備のため一足先に出発します。
岩櫃城は、岩櫃山の北東に伸びる尾根に築かれた城で、
西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で
天然の要害となっています。
尾根の西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、
北東に出丸の「天狗丸」があり、
その更に北東には支城・柳沢城(観音山城)が位置しています。
そのため、岩櫃城は戦国時代、武田の三堅城の1つに数えられ、
真田家と真田忍びの拠点となった上信越の要害として知られています。
岩櫃城のウィークポイントは北側の平沢地区ですが、
この地区へ行くには沢沿いの狭い一本道しかなく、
柳沢城(観音山城)と岩櫃城の出城・天狗岩
に挟撃されることになります。
まさに大軍を少兵でも誘い込んで殲滅させることのできる
地形となっています。
昌幸が勝頼に進言したのも頷けますね。
しかし、残された昌幸の息子、
信幸(大泉洋)・信繁(堺正人)兄弟のもとへ
人目を忍んで訪れた勝頼は「岩櫃には行かない」
と告げます。
兄弟は小山田信茂(温水洋一)の岩殿城へ逃げる武田の本隊と別れ、
父の待つ岩櫃に向かうことを決心します。
敵軍が目前に迫るなか、兄弟の、家族を守りながらの決死行が始まります。
一方、岩殿城を目指す武田勝頼は、
その途中、高島城の落城と言う知らせが届いたりする度に、
家臣の離反が相次ぎ、600名いた供はいつしか100名程度
になってしまいます。
先に岩殿城に赴いて準備をすると言った
小山田信茂も武田勝頼を裏切り、笹子峠を封鎖します。
勝頼はどこへ落ちのびるのでしょうか?