真田丸 人物列伝~真田信幸(信之) [真田丸]
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<h2>真田信幸(信之)・・・大泉洋</h2>
生存年:永禄9年(1566年)~ 万治元年10月17日(1658年11月12日)
改名:源三郎(幼名)→信幸(初名)→信之
別名:一当斎(号)
戒名:大鋒院殿徹巌一当大居士
墓所
長野県長野市松代町の長国寺
長野県長野市松代町の大鋒寺
和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山蓮華定院
京都市右京区の妙心寺塔頭 大法院
官位:従五位下、伊豆守、従四位下侍従
主君:徳川家康→秀忠→家光→家綱
父:真田昌幸
母:山手殿(寒松院、宇多頼忠の娘)
兄弟:信之、信繁、昌親、信勝、村松殿(小山田茂誠室)、真田幸政室、鎌原重春室、保科正光室、於菊(宇多頼次室のち滝川一積室)、清 光院(妻木頼熊室)、於楽
正室:小松姫(本多忠勝の娘)
側室:右京(玉川秀政の娘)
清音院殿(真田信綱の娘)
子:信吉、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、道鏡慧端
永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる。
真田家は織田信長の死後、北条→徳川と臣従を繰り返し、最終的に豊臣秀吉に臣従した。
信幸は徳川の与力大名となり、その後、家康は信幸の才量を愛で、本多忠勝の娘・小松姫を
養女にして結婚させました。
天正18年(1590年)、小田原征伐では真田が上野松井田城攻めで戦功をあげ、
北条氏滅亡後、沼田領が真田家の所領と加増されると信幸は沼田城主となります。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発します。
父の昌幸は妻の山手殿が石田三成の妻と姉妹の関係、弟の信繁は妻が大谷吉継の娘の関係から、
石田三成の西軍に付きます。
信幸の方は徳川に臣従し、妻がッ本多忠勝の娘の関係から東軍に付きます。
親・兄弟が戦場で戦うことになりますが、
信幸は戦後、父と弟の助命を嘆願し、義父の本多忠勝や井伊直政の働きかけもあって
高野山へ流罪となっています。
信幸自身は父の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石の大名となります。
また、父や弟との決別の意で名を信幸から信之に改めています。
しかし、父や弟との関係は良好で、父や弟へ仕送りをしていたことが
記録に残っています。
大坂の陣後の元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、
13万石(沼田3万石は継承)の大名となります。
信之は真田家の礎を築いたのに安堵したのか、
同月の17日、永眠しました。
享年93歳。
その後信之の系統は断絶しましたが、養子が後を継ぎ、
明治には華族(子爵→伯爵)となっています。
真田信之は、伝説化された弟の信繁、父の昌幸と比べると、
知名度が低いです。
しかし、父・昌幸に劣らぬ智将・猛将であることを
史料からうかがうことができます。
信之は沈着冷静で温厚な人物と言われていますが、
戦場では総大将なのに常に先陣を切って進む
という豪快さを持っていたそうです。
神田明神の祭神である平将門そっくりですね^-^
父親譲りの智謀は、小田原討伐の手子丸城攻略に
表れています。
17歳の信之は手子丸城出警戒の薄い北の丸に
工作部隊を送り、「裏切者が出た」と叫びながら
放火させました。
北条軍が同様するなか、信之は50人の決死隊とともに
突入し、手子丸城を陥落させました。
まるで源義経のゲリラ戦と同じですね。
17歳でこの策略。
敵にしたくないですね〈苦笑
信之は父や弟が豊臣方だっったために、
徳川方の心ない大名たちから「裏切り者」
と疑われていました。
しかし、それでも父や弟の助命を求め、
家康や井伊直政、本多忠勝などから信頼された
のは、信之の人間性だと思います。
昌幸に劣らぬ武将として、
信繁以上に評価すべきと思いますが、
あなたはどう思われるでしょうか?
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