真田丸 人物列伝~真田信幸(信之) [真田丸]

Sponsored Link

<h2>真田信幸(信之)・・・大泉洋</h2>

21260010_DETAIL_PICTURE_20151108212546.jpg  1120.jpg 

 生存年:永禄9年(1566年)~ 万治元年10月17日(1658年11月12日) 

改名:源三郎(幼名)→信幸(初名)→信之 

別名:一当斎(号) 

戒名:大鋒院殿徹巌一当大居士 

 

 

墓所

長野県長野市松代町の長国寺

長野県長野市松代町の大鋒寺

和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山蓮華定院

京都市右京区の妙心寺塔頭 大法院 

 

 

官位:従五位下、伊豆守、従四位下侍従

 

 

主君:徳川家康→秀忠→家光→家綱 

 

 

父:真田昌幸

母:山手殿(寒松院、宇多頼忠の娘) 

兄弟:信之、信繁、昌親、信勝、村松殿(小山田茂誠室)、真田幸政室、鎌原重春室、保科正光室、於菊(宇多頼次室のち滝川一積室)、清   光院(妻木頼熊室)、於楽 

正室:小松姫(本多忠勝の娘)

側室:右京(玉川秀政の娘)

   清音院殿(真田信綱の娘)

子:信吉、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)、道鏡慧端 

 

 

永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる。

真田家は織田信長の死後、北条→徳川と臣従を繰り返し、最終的に豊臣秀吉に臣従した。

 

信幸は徳川の与力大名となり、その後、家康は信幸の才量を愛で、本多忠勝の娘・小松姫を

養女にして結婚させました。

 

天正18年(1590年)、小田原征伐では真田が上野松井田城攻めで戦功をあげ、

北条氏滅亡後、沼田領が真田家の所領と加増されると信幸は沼田城主となります。

 

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発します。

父の昌幸は妻の山手殿が石田三成の妻と姉妹の関係、弟の信繁は妻が大谷吉継の娘の関係から、

石田三成の西軍に付きます。

信幸の方は徳川に臣従し、妻がッ本多忠勝の娘の関係から東軍に付きます。

 

親・兄弟が戦場で戦うことになりますが、

信幸は戦後、父と弟の助命を嘆願し、義父の本多忠勝や井伊直政の働きかけもあって

高野山へ流罪となっています。

 

信幸自身は父の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石の大名となります。

また、父や弟との決別の意で名を信幸から信之に改めています。

 

しかし、父や弟との関係は良好で、父や弟へ仕送りをしていたことが

記録に残っています。

 

大坂の陣後の元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、

13万石(沼田3万石は継承)の大名となります。

 

信之は真田家の礎を築いたのに安堵したのか、

同月の17日、永眠しました。

享年93歳。

 

その後信之の系統は断絶しましたが、養子が後を継ぎ、

明治には華族(子爵→伯爵)となっています。

 

 

真田信之は、伝説化された弟の信繁、父の昌幸と比べると、

知名度が低いです。

 

しかし、父・昌幸に劣らぬ智将・猛将であることを

史料からうかがうことができます。

 

信之は沈着冷静で温厚な人物と言われていますが、

戦場では総大将なのに常に先陣を切って進む

という豪快さを持っていたそうです。

 

神田明神の祭神である平将門そっくりですね^-^

 

父親譲りの智謀は、小田原討伐の手子丸城攻略に

表れています。

 

17歳の信之は手子丸城出警戒の薄い北の丸に

工作部隊を送り、「裏切者が出た」と叫びながら

放火させました。

 

北条軍が同様するなか、信之は50人の決死隊とともに

突入し、手子丸城を陥落させました。

 

まるで源義経のゲリラ戦と同じですね。

17歳でこの策略。

敵にしたくないですね〈苦笑

 

 

信之は父や弟が豊臣方だっったために、

徳川方の心ない大名たちから「裏切り者」

と疑われていました。

 

しかし、それでも父や弟の助命を求め、

家康や井伊直政、本多忠勝などから信頼された

のは、信之の人間性だと思います。

 

昌幸に劣らぬ武将として、

信繁以上に評価すべきと思いますが、

あなたはどう思われるでしょうか?


Sponsored Link


nice!(0) 
共通テーマ:テレビ

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。