真田丸 人物列伝~真田信繁〈幸村)~ [真田丸]

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真田信繁(幸村)・・・堺雅人

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 略伝

生存年:1567~1615年〈享年49歳)

改名:弁丸〈幼名)真田信繁、好白〈法名)

別名:源次郎、幸村、豊臣信繁、伝心月叟

官位:従五位下、左衛門佐

氏族:武藤氏→真田氏、豊臣贈姓 

主君:上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼 

父:真田昌幸

母:宇多頼忠の娘・山手殿(寒松院)

   異説もある

兄弟:村松殿、信之、信繁、信勝、昌親ほか 

妻:正室:(大谷吉継の娘、姪?)・竹林院

   側室:豊臣秀次の娘・隆清院、

  堀田興重の娘、

  高梨内記の娘 

子:阿菊(石合重定室)、

  於市、

   阿梅(片倉重長後室)、

    あくり(蒲生郷喜室)、

  幸昌、

  なほ(御田姫、岩城宣隆室)、

   阿昌蒲(片倉定広室)、

  おかね(石川貞清室)、

  守信、幸信、之親、

   瓢左衛門 

墓所:長野県長野市の長国寺・・・松代藩真田家の菩提寺

   京都府京都市の龍安寺塔頭大珠院・・・娘・おかねの夫・石川貞清が建立

   京都府京都市の妙心寺塔頭養徳院・・・非公開で不詳

   福井県福井市の孝顕寺首塚・・・信繁を討ち取った西尾宗次の菩提寺

                  今は福井市立郷土歴史博物館に保存

   宮城県白石市の田村家墓所・・・娘・阿菖蒲の夫・片倉定広が建立

   秋田県由利本荘市の妙慶寺・・・娘の御田姫(顕性院)が建立 

 

真田信繁は、1567(永禄10)年、真田昌幸の2男として

甲府で生まれました。

母は昌幸の正室・山手殿といわれていますが、

諸説あってはっきりしていません。

 

また、初陣の年も父の昌幸に従い、

北条方の丸子城を攻めた1583年(16歳)とされていますが、

真田氏は武田・織田両氏の滅亡後、秀吉に仕えるまで

南北朝の時の武士と同様、その時の状況に応じて

北条・徳川・上杉につくということをしています。

 

真田氏はこのような弱小豪族であったために、攻められることが多く、

記録にはありませんが、信繁も元服前から戦場に出ていた可能性は

高いと思われます。

 

豊臣秀吉が天下を取ると昌幸が臣従し、大名となったことから

信繁は大坂で人質生活を送り、その後、大谷吉継の娘〈後の竹林院)を

正室としています。

 

秀吉逝去後の1600〈慶長5)年、関ヶ原の戦いが起こります。

昌幸と信繁は石田三成の西軍、信幸は徳川家康の東軍に加わります。

 

これは講談にあるように、

昌幸が真田家の存続をはかるために敵味方に分けたのではなく、

信幸の正室・小松姫が徳川四天王の本多忠勝の娘で、

信幸自身も徳川家に出仕していたためです。

 

昌幸と信繁は第2次上田合戦で

徳川秀忠の3万の軍勢を上田城に釘付けにし、

関ヶ原の戦いに間に合わなくさせますが、西軍は敗れました。

 

そのため、昌幸と信繁は本来なら死罪は免れませんが、

信幸と本多忠勝の助命嘆願で

高野山に幽閉されます。

 

その後、九度山に移りますが、生活は困窮を極め、

1611(慶長16〉年、昌幸が病死します。享年65歳。

 

信繁自身も生活の労苦から歯が抜け、髪も白髪の

みすぼらしい初老の人となっていました。

 

そのため、徳川家の京都方広寺の鐘銘に対する豊臣家への難くせに端を発した

大坂の陣への参戦の時、大阪城の門番は信繁をいかがわしい者として入城を

拒んだというエピソードが残っています。

 

 

また、信繁は真田丸を築いて徳川軍を何度も敗退させるまで

兄の信幸のような軍功はなく、無名でした。

 

そのため、家康は昌幸を恐れていましたが、信繁が大坂に入城しても

眼中になかったようで、「信繁恐るべし」と認識するのは真田丸の攻防戦

後のことです。

 

そのため、真田丸の構想は昌幸によるもののように思います。

北政所さえ予測できたのですから、

昌幸ほどの人がいずれ家康が天下を狙うことを予測できないはずがありません。

 

九度山で昌幸は大阪城を守る秘策を信繁に教えたと思います。

それを信繁は実行し、ヒーローとなっったのだと思います。

まさにお調子者で実行力に富んだ坂本龍馬が勝海舟や佐久間象山などの考えを

実行に移し、薩長同盟や亀山社中を作ったのと相通じるところがありそうです。

 

真田丸への攻撃初日で徳川方はナント千人もの死者を出し、

その数は徳川方の大坂夏の陣の戦死者の8割に当たります。

 

家康はあわてて信繁を信濃3万石で召し抱える旨の使者を出しますが、

信繁に断られます。

たとえ3万石で召し抱えられても保証はなく、

改易・転封・減封は家康の思いのままです。

破格の待遇は信繁でなくとも信じられず断るでしょう。

 

その後、家康は豊臣家と和議を結び、

大阪城の外堀と内堀を埋め、真田丸を壊します。

本丸だけとなった大坂城は裸同然となります。

 

家康は豊臣家に臣従し、転封に応じるよう要求します。

和議は決裂し、大阪夏の陣が起こります。

 

信繁は毛利勝永などとともに家康本陣のみを目指して

最後の戦いにのぞみます。

信繁の軍勢は3度も家康本陣に突入します。

 

そのすさまじい猛攻に、

騎馬で逃れる家康は何度も「切腹するぞ」と叫び、

その度に側近から止められる始末だったといわれています。

 

しかし、これは信繁を讃える上での後世の作り話と言えそうです。

なぜなら、家康は三方ヶ原の戦いで恐怖のあまり馬上で小便をちびったと

いわれていますが、浜松城に入場すると開城し、追撃してきた山県昌景は

「空城の計」を疑い、軍を引き上げています。

 

このことから家康は上記のような取り乱した姿を露呈する武将ではなく、

もっと度胸が座っていたと思います。

 

 

そんな家康を逃走させた信繁も重なる戦闘で兵力が減少し、疲労していました。

安居天神で休んでいるところを越前の松平忠直軍に見つかってしまいます。

信繁はもはやこれまでと「儂の首を取って手柄にせよ」といって討ち取られます。

享年49歳。

 

 

真田信繁は家康を恐れさせた武将として勇猛果敢なように思われがちですが、

兄の信幸は「柔和で忍耐強く、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった」

と述べています。

 

頭に香を焚いて覚悟の戦死をした木村重成は

普段は茶坊主からも侮られるほど穏やかな少年だったそうです。

それが見事な死に際のために武士の鑑と徳川方から賞賛されました。

 

普段穏やかな人が怒った時は恐ろしいことは

私たちもなんとなく理解できそうですね。

 

歴史にもしもと言うことはありませんが、

大男の豊臣秀頼が少しでも総大将として

千成ひょうたんを掲げて出陣すれば

大坂の陣も違っていたものになっていただろう

と思えます。

 

 

今もそうですが、無能な者の下についたものは憐れです。

信用できる友人と自分のスキルやノウハウを磨くことが

大事なことを信繁の一生からも学ぶことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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